一般化可能な正義や真理が存在するという思い込み

『国家は、いらない』の話なのだけど、
徳治主義についての話が出ていたのだが、

政治思想史を振り返ってみると、多くの政治哲学者が、「政治を行う人物たちが、その人間性を高めることによって、より良い政治が実践され、その結果としてより良い社会が実現する」と考えてきた。

で、まあいまだにこの考えは形を変えて残っていたりする。
「能力が高くて正しき者が政治に関わればその国は正しくなる」
まぁそれって官僚制度なんだけども。

で、うすぼんやりと「一般化可能な正義や真理が存在するという思い込み」を考えてみた。

男女のケンカでよくあるのは、

男「これぐらい普通だろう。別に悪いことでもなんでもない」
女「私が嫌だからやめてって言ってるの。悪いとか悪くないとか関係ない」
男「なんてワガママな女なんだ」

とか。
まあ場合によっては男女が逆転するケースもあるけど。

ともかく一般化された「よいこと」「悪いこと」が存在すると考えているわけだ。
いや、殺人とか盗みとか万国共通で罰則化されているようなものならそうかもしれないよ。
でも、日常のいざこざはもっと微妙なレベルの「よいこと」「悪いこと」・・・、それこそ隣の夫婦間ではそれは別にOKになっている、とか、そういう事柄じゃないのかな。

おそらくね、「オレが好きだからやる」「オレが嫌だと思うからやめろ」というエゴイズムこそがもっとも信頼できる正義ではあるのじゃないか、とか。
個人的には利己主義に向かい合わないで紡ぎだされた言葉など全くもって信用できない。

どうしてこんな当り前のことをダラダラ書いたかと言えば、
「人間にとって大事なのは公共心だよ」と間の抜けた説教をする人もいれば、
「君がウチの会社に来ていい働きをしてくれれば、オレの評価も上がるからいいんだよ」と人間のエゴを前向きに話す人もいたりするので、
世の中色々だよね。