『テクノロジストの条件』読了とか

とりあえず読み終わった。



面白かったし、ドラッカーの割には意外と読みやすかった。

でもって、印象に残ったこと。

仕事の定義について。

しかし、その違いの最大の原因は仕事の定義の違いにある。学校の仕事を公立学校では恵まれない子を助けることと定義しているのに対し、ミッション・スクールでは学びたい子が学べることと定義している。すなわち、前者が失敗を基準にしているのに対し、後者は成功を基準にしている。 同様に、医薬品メーカーによっては研究開発部門の仕事の定義が異なる。一方は既存の医薬品の改善に絞り、一方は、リスクはともなうが革新的な医薬品を生み出すことにしている。 このように、仕事の定義の仕方そのものが、知識労働の質の定義や生産性向上の方法を変える。


ベンチャーの成長と資本構造について。

成功しているベンチャーは、みずからの資本構造を超えて成長する。これもまた経験則によれば、売り上げを40パーセントから50パーセント伸ばすごとに、それまでの資本構造では間に合わなくなる。資本構造を変えなければならない。 ベンチャーは成長するにともない、オーナー自身や家族、あるいは友人という私的資本では間に合わなくなる。株式公開、既存企業との提携、保険会社や年金基金からの資金調達など、大きな資金源をもたなければならなくなる。増資によって資金調達してきたのであれば、長期の借り入れを行わなければならなくなる。逆の場合もある。成長によって、それまでの資本構造が陳腐化し、障害となる。


そのベンチャーに適切なマネジメント能力が欠損している話について。

考えられるケースは2つある。1つは、創業者自身が能力と関心をもつ1つか2つの活動に没頭したままでいるケースである。
もう1つのさらに悪いケースは、創業者自身が良心的な場合である。彼は人と資金が重要であること、そしてそれらをマネジメントしなければならないことを知っている。そこで自分の能力と関心が新製品の設計と開発にあるにもかかわらず、人と資金を自分でマネジメントしようとする。だが才能がないために、いずれもうまくいかない。


素敵な諺。

死体が臭わないようにすることほど涙ぐましく、しかも不毛な仕事はないと昔からの諺である。


2種類の会議。

したがって、起業家的な企業では2つの会議を開く。1つは問題に集中する会議であり、もう1つは機会に集中する会議である。


新聞広告について。

もう一つが、「ニューヨーク・タイムズ」のアドルフ・オクス、「ニューヨーク・ワールド」のジョセフ・ピュリッツアー、ウィリアム・ランドルフ・ハーストの3人の新聞発行者が行った、広告という社会的イノベーションだった。新聞は広告のおかげで誰でも買える安いものになった。


規模と機能について。

生物的なシステムでは、規模は機能により決まる。 ゴキブリにとって、大きいことは反生産的である。ゾウにとって、小さいことは反生産的である。生物学者は、ネズミはネズミとして成功するために必要なことをすべて知っているという。ネズミが人間よりも頭がよいかどうかは愚問である。ネズミはネズミとして成功するうえで必要なことについて、他のあらゆる動物の先を行っている。


知覚的認識とか。

300年前、デカルトは「我思う。ゆえに我あり」といった。今やわれわれは、これと同時に「我見る。ゆえに我あり」といわなければならない。デカルト以来、重点は分析的論理におかれてきた。これからは、分析的論理と知覚的認識の双方が不可欠となる。


知識探求の優先順位について。

しかし主たる原因は、金で学位と図体は雇えても、人は雇えないからである。人は育て、訓練し、試練を経させなければならない。そのためには時間という金では変えないものが必要とになる。 知識の探求にあたって、優先順位はどうあるべきか。訓練と経験と実績のある貴重な人材をどの仕事に振り向けるべきか。