魚の獲り方ではなく魚の価値を理解すること

よい文章。

魚の獲り方だけ教えれば本当に一生食えるのか

「彼に魚を与えれば、一日食べることができる。彼に魚の獲り方を教えれば、一生食べることができる。」 って言葉があるじゃないですか。つまり、WhatよりHowを教えよ、という。 しかし、自分が「分かっていて欲しい」のはもう一つ上の「Why」なんですよ。 その上でHowを教えるのなら喜んで教えたい。しかし、Whyが無い人にHowを教えようとしても、例えば極端な話、「魚がどんだけ美味いのか知らない人」に魚の獲り方を教えても、たぶん獲ろうとはしないし、興味も沸かないんじゃないか、ってこと。 なので、Why、つまり「魚がどんだけ美味くて腹が膨れるか」ってことを教えればいい訳なんだけど、それって、説明して理解できるもんなのか、という…。 言葉にすることはできますよ。でも、なんというか、それって凄く難しいんじゃなかろうか。 …いや、違うな。たぶん自分は結局のところ、「人から与えられたWhy(目的)」という概念自体が嫌いなんでしょう。それじゃ意味ないんです。 そんなん、全然楽しくない。面白くない。

一生食べていける魚の獲り方なんぞ実は存在しないのだろうな。
エンジニアが新しい技術にどんどん追い立てられるように。

重要なのは魚の価値を正しく理解することなんじゃないのかしら。