書籍『国家は、いらない』読了

読んだよ。


アオリから。

住宅、農業、税制、利用、著作権etc・・・・・・ 日本政府が行っている政策はあまりにチグハグで 不必要かつ有害だ。 矛盾だらけの国家政策にだまされるな! 利益誘導は、常に「公益」の皮をかぶっている!


自由主義、市場主義バンザイな本。

例え純粋な正義だとしても「公益なんてムリじゃん」と筆者は宣言する。

社会には多様な事実や状況があり、その曖昧さの中で、誰もが自分の取り分を正当化する。こうした人間の一人ひとりが有権者として政治制度をつくる。そこで、強者がより大きな金額を政治に使うことができれば、彼らには有利な制度ができあがることは必然的だろう。 また同時に、我われの心の中にあるリベラルな幻想が、一つひとつの制度がある特定の弱者に見える人びとを保護していると錯覚し、正当化している。しかし、その結果が全員の首を絞めることになっていることには、ほとんど注意が払われていない。


ということで、日本の様々な保護政策が批判されまくっている。
ふむふむと読んでみたよ。

まぁ幾つか論点はあるのだけど、
安全性を担保するには公共である必要があると言うが、クルマは民間じゃないかよ、とか、
日本の土地の高さは弱者保護の法律が流動性を低くしている為だとか、
電波は競売にしてしまえば、10兆ぐらいの税収が上がるだろうよ、とか、
日本は水・ガス・電力のコストが高すぎるよ、とか、
医者で待たされてしまうのは供給より需要が勝っているにも関わらず、価格統制や人員統制が行われている為で、それって社会主義の配給の行列と一緒だよ、とか、
芸術は著作権モデルを頼らずに、大学教授とかが講演会などで稼ぐ「学術モデル」みたいになればいいんじゃねぇの?とか、
農業保護で食料自給率を上げたところでそれを達成する為の機械燃料などは海外から調達するなら意味ないじゃん、とか、
(この本に限らず、食糧自給率についてはあまりこだわらずに諸外国から購入してリスクを分散させたほうがいい、という意見はよく見る)

「公共性」というものについて。

例えば、日本の文化として稲作が大事だという人は、直接に自分の所得の5%を、稲作農家のつくるコメを買うことによって保護すればいいだろう。あるいは、芸大の日本絵画教育が価値あると思う人は、自分で日本画家の作品を買ったり、あるいは直接に芸大に寄付をしたりすればいい。 どういう形にしても、「公共性」というものは我われが社会的な存在である限りは残る。しかし、その「公共」なるものが強制力を持つ「政府」によって行われるべき必然性はどこにもない。


それと、「選挙に行くぐらいならボランティアなどしたほうがはるかに『本当にいいこと』が実現する」というのは痛烈な皮肉か。

尖っていて面白いと思うので一読してみたらいいさ。