分からないのを放っておくのが気持ち悪いとか

だらだら。

「勉強ができる」という蔑称

まぁ昔話なんですけど。

小学生、中学生の頃はまぁ勉強していたと思うのだけど、真面目だったからかな、とか思うし、
そもそも、物を覚える楽しみというよりも、
理解できないことを理解できないまま放っておくのが気持ちが悪くて嫌だったというところかな。
今でも「原因をはっきりさせないと気が済まない」っていう人は割とエンジニア業界に多いと思うのだけど、まぁそんな感じ。

小学校に入学して、真新しい教科書をどっさりもらったときは、ほんとうに嬉しかった。


だから、「嬉しい」という感じではなかったろうな、決して。

それが中学後半ぐらいからかな、「大学進学」ってのがうっすらと頭にあって、手段としての勉強になっていく。
とにかく暗記系があまり好きじゃなかったし、
「分からなくなったら本で調べればすぐに済む事を試験ではわざわざ記憶して受けないといけない」
というのがすごくアホくさくて嫌だったり。
英語でも社会でも教科書や辞書持ち込みで試験受けてもいいんじゃないの?ってのは今でも思っていることなんだけどね。
受験勉強の殆どって、「調べて解決する」のではなく、「暗記したことを書く」ってイメージがあるからなぁ。
だから物理とか結構好きだったのかな。覚える公式少なくて済むし。

だから、私は「頭がいい」と言われることが、どうしても好きにはなれなかった。「まじめ」「いい子」という呼び名も、同じ意味で嫌いだった。


正直、そういうのってあまりなかった気がするし、一般化は難しいと思う。
中学の頃の話で覚えているのは、
毎日塾に行くような奴がいたんだけど、学校の成績ではなかなか一番をとれなくて、
「あんだけ勉強しているのにトップをとれないのはなんか可哀想だよね」
みたいに友人が同情していた話だとか。
だから、勉強はできたほうがやはり価値があるって感じだったし、「勉強のできる子」が蔑まれるという雰囲気はなかった気がする。
もしかしたら女性は違うのかもしれんけど。
ただ、個人的な経験だと、クラスのリーダー格の女性とかもやっぱりそれなりに勉強ができていたわけで、やはり一般化は難しいだろうなぁ、と。

ここでも書いたけど、
頭がいいとか勉強とか
やはり、小中高で強制させられる勉強って手段としての勉強でしかない気がするし、
あまりそれを目的視しすぎると、大学入ってからの喪失感がなんとなく大きいのではないかと思う。
こんなこと書いているから、大学空洞化なんだろうなぁ。
でもさ、物理とか受験科目としては自分にとって効率はいいのだけど、
大学に入ってからも学びたいか?と問われると間違いなくNOだしね。
新書ぐらいは買うかもしれないが、あくまでもそれは興味の延長にしか過ぎないし、
講義とか試験とかそういう学ぶ環境に身を置きたいか?と問われるとそこまでする気にはなれないし。

日本の企業は、博士以上の高学歴者を敬遠するという。そこには、勉強のできる子供に対する偏見と同質の偏見がひそんでいるような気がする。


どっちかと言うと、新卒偏重主義とかそのへんがキーかなとは思う。
なんか、中小企業についていえば、10年前より今のほうが新卒偏重の度合いが強まっているらしいよね、日経で読んだけど。
日本の企業は真っ白なキャンパスを自分のカラーで染めて行くのがきっと好きなんだよ。
ゼネラリスト中心だし、学士と博士を「わざわざ」区別して採用する意義を見出してないんだろうな。
そういった意味では制約付き学歴社会だと思う。