人を育てたい、人を探したい、とか

ふと話をしていて気がついたこと。

中小企業の社長でも、「人を育てたい」のと「人を探したい」の2種類に大きく分かれるのかな、と。

前者は社員教育に割と労力を注ぐことを惜しみなく行い、
能力の不足している人間に対しても、若干の気の長さを保つ余裕があるが、
「これはよさそうだ」という伸びしろを期待して人を採用してしまいがちなので、
採用後のポジションが迷走することが多い。
後者はあらかじめ不足しているポジションを埋める為に人を探す。
必要な人間を必要な分だけ採用する。
だから、能力が不足していると分かった場合の態度は顕著だ。
まぁクビにするまではいかないんだけど。

「人を育てたい」というのはなんというか「育てる」こと自体が一つの目的になってしまってるよな。
中小の場合、会社は経営者の「私物」みたいなもんだから、「育てゲーム」というか、自分の趣味を満足させる為にそういうアプローチもいいのだと思うけど、でも普通の人を普通に育て上げることに意義はあるのかね、とも。

それから、「人を探したい」というのは学生ベンチャーとかによくある傾向かしら、とか。
そもそも「人を育てる」ことが学べるのは企業組織の中だし、多分不得手なんだろうなぁ、とか。

正社員vsハケン

こういう文脈的技能は、高度成長期のように市場が拡大していて配置転換で需要の変動に対応できる時代には意味があったが、今のように製造業全体の規模が絶対的に縮小してゆく時代には、外部労働市場で通用する一般的技能をもっていないと、会社がつぶれたら食っていけなくなる。この意味では、正社員も派遣と同じリスクを抱えているのだ。雇用可能性を高めるには、今の若者を対象にした大学や大学院のしくみを改めて、労働者の再教育機関として位置づけ直す必要があろう。



「文脈的技能」、「一般的技能」っていうのはなかなかよい表現だと思うけど、
実際には二兎を追わなければうまくはいかないのだろうな、とは思う。
だから、「人を探したい」だけでは行き詰まる。
アメリカですら実際の経営陣とか幹部クラスになると、生え抜きの社員の割合が多いみたいだし。
「文脈的技能」の着地点は会社の出世というようになんとなく見えているのだけど、「一般的技能」ってそこまで見通しがいいわけではない。
例えば、経験を生かして、独立自営するとか、そういう感じになってしまうのだけど。

ただ、採用的な正解としては、「必要な人を必要な数だけ採用する」「迷ったら採用しない」ってことらしいんだけどね。
そうそう簡単にクビにするわけにもいかないし。