努力論の果て

努力論が盛り上がっているが。

結局、「努力とは何か?」という定義があやふやな状態で論が繰り返されているので、修辞的なゲームになってしまっている気がする。
そもそも、
1ヶ月間だけ、思い切りがんばれば。
というエントリーが発端であったのだが、
だけど、あの人にアドバイスはできないと思う
というのを見ると、極めて私的な一個人を想定した文章だと判明する。

にも関わらず、「努力」の定義があやふやな状態であーでもないこーでもないと論を展開するから、あちこちに拡大するのだ。

大体、それらの「努力論」的な文章は人を動かす程の有効性を持っているか否か。
ある程度社会経験を積んだ、大概の人々は「運」や「努力」や「効率」の重要性をなんとなく把握しており、「極論に走らず、身の丈にあってバランスよくやるしかないよね」と結論づけている。
おそらくそれは修辞的な努力論に接してもあまり変わることはないだろう。

実効性を持つのは、「軽々とやっているように見えたあの人が実はこれぐらいやっていた」という驚きではないかと。
例えば、世の中の90%のビジネスマンが「朝は30%英語学習にあてている」と知れば自分もそれぐらいは「普通に」やらなけれならないという焦燥感を持つように。

個人的な経験則で言えば、「意外と皆自己研鑽的なことはしている」のだが、それについては他者には殆ど話すことはない。

例えば、自己啓発の一種で、「私は3か月後までにほげほげする」と宣言するものがあったりするのだが、こういうのは殆ど聞いたことない。
というか、事をなす殆どの人間は宣言などしない。

てな、感じで努力論を相対化した後でなお残るのは何か?と言われれば、時間の重要性ではないかと思う。
時間への焦燥感こそが個々人のモチベーションにつながると思うのだが。