LDとオウムが似ているのではなく、LD報道とオウム報道が似ている

ライブドアとオウムが似ているのではなくてより。

結局似ているのは、「オウム」にしろ「ライブドア」にしろ、時々の「脱秩序」蓋を開ければ「反社会」的な「異形」に、日常から逃げ出したさについついすがってしまう、そして箱の蓋が開いてしまえば全部叩いてしまいたくなる社会側の精神構造であって、そのトリガとなった「オウム」と「ライブドア」自体は、全然違う物だろうと思う。
あちこちで「手の平を返したように」と喧伝されているが、LDに対する報道とオウムに対する過熱報道が似ていると思ったり。
とは言っても、麻原よりLD社長のほうが一国の首相ですら持ち上げていたわけで、全然訳が違うのかな、とも。

ライブドアとオウム?より。
熱狂的なデイトレードは、いまの日本社会が構造的に生み出したものだ。同じように、カルトへの沈潜も日本社会が構造的に生み出した。1990年代前半のカルト信者の位置は、2000年代前半の個人投資家へと受け継がれた(誤解のないように言うが、これは別に個人投資そのものがカルトだという意味ではない)。両者はともに、大澤真幸の言葉を使えば、「アイロニカルな没入」で特徴づけられる。だとすれば、かつて宮台真司が「オウムにはまらず終わりなき日常を生きる知恵」を説いたように、今後は「個人投資による一発逆転の夢を見ずに終わりなき日常を生きる知恵」が必要になるのかもしれない。
それを言い切ってしまうのはどうかとも。
ある種の人々にとっては、「終わりなき『下流の』日常を生きる知恵」となるだろう。
格差社会なんて言葉があるように、今はあの頃よりも状況は閉塞的だ。

にしてもテレビでは繰り返し忘年会のビデオが流されるが、
LD自体にも実はぱっとした商売がなかったりするので、
遅かれ早かれバラバラになるのかなぁ、なんて思うと、
ちょっと切ない気分になったり。