また成果主義とか

目に見えるはずの成果を読んで。

誰の目に見えるか?というのが大事かと。 査定の仕組みにもよるが、成果主義は決定権限を持っている人間の心へ訴えかけれなければ意味がない気がする。 (そういった意味でもし「便利屋」になってしまっているのであれば、なかなか評価されにくい) で、決定権限を持った人間が、もしチームとしての(売上の)数字にしか目が行かず、その数字が平凡なものであれば、メンバーへの賞与も平凡なものになるのだろうなぁ。

それか(修士ということですので)元々の給与テーブルが同期に比較して高目に設定されており、「これくらいやって当然」って思われてたりして。。。

というか単に、一年目の社員は問答無用で横並び評価というのが会社の方針な気もするし、そういう会社はわりかし多いとも思う。

ところで、高橋伸夫という一貫して成果主義批判を行っている人もいるので(参考:やる気の出させ方)、その人の本もついでに。

ちなみに今、わし年収300万弱しかないんですけどね、、、 。・゚・(ノД`)・゚・。

気になるのは、5年選手、10年選手がいくら貰っているということかな。 「10年勤めてもこの給与か」とショックを受けなければいいのだけども。

企業側に立つのであれば、「ない袖振れるのであれば、そりゃあ社員に大盤振る舞いしたい」のが心情だと思うけども。

いや成果主義だと言っても、実際には管理職ポストと給与テーブルを連動させているところが多いと思うし、勤続年数がポスト獲得の制約条件だとすれば、結局年功主義に近くなってしまうのだろうなぁ。 (技術レベルの職階という考え方があればいいのだけども)

ところで、実際の昇給幅にもよるのだけども、個人的には自己評価の相場感覚を安く見積もるようにならないか?という不安もあります。 慣れてしまうと、転職の時も結局その数字でいいや、となってしまうし。 金金金ばかり言っても仕方ないけども、年俸とかの数字って、学力試験の数字に似た部分もあるのかな、と思うのです。 知識欲そのものを重視することは必要ですが(というか当然)、加えて、100点満点の試験で「自分は95点取れる人間だ」と位置付ける心構えも大事な気がする。

30歳とかの年齢で、自分は400万程度の年俸の人間だと判断できるのと、600万程度の人間だと判断できるのは、エンジニアとしてもどちらか幸せなのか?

あとヘッポコさんのブログをずっと見て思うのだが、(業務的には学ぶことはあると思うけど)あまり周囲から技術的な事は学べないと本人が感じるのは不幸かな。 世の中には優れた技術コミュニティとしての機能も有する会社組織も多々あり、たとえ一年間という時間に限定したとしても、そうでないところに比較してより多くのことが学べると思う。 ただ、組み込み系はWeb等に比較してオープンなコミュニティ自体もあまりないだろうし、(メーカ依存の固有部分が多く)情報の共有も難しいので(?)、会社組織でもなかなかそのような雰囲気は作りにくいのじゃないかね(と勝手に妄想)。