「非の指摘」=「反対された」

悲観主義とオプティミズム
なんでも悲観的に考える人と、なんでも努力すれば何とかなるという人
を読んでふと。

正直、「Web進化論」の該当の箇所は「過去、モチベーションの低い人々に囲まれたときのフラストレーション」が表象化していただけな気がするが。
いまだにそのトラウマから抜けきれないのか、まだまだ日本にオプティミズムが足りないのか。
(といっても、日本にいないのだよな、普段)

ちょっと元の記事の「個」を中心としてものはとは異なり、「人間関係」の話になるけど。

大分前にふと思ったのは、「リスク」を話しているだけで、別に物事の実行に反対しているわけじゃないのに、それが反対しているととられることがあるってことね。
(自分自身も含めて)話し手の口調が悪いこともあるだろうけど、「非の指摘」=「反対された」という思考回路の持ち主って意外と多いのではないかと思う。

極端なオプティミズム 
=> 「反対されたけど、問題発生したときに考えよう」
極端な悲観主義
=> 「反対されたので、やめよう」

そうなると話がちっとも前進しないし、「ってか、意見するのもNGか?」という感じになってしまう。

「謝れば済む」=>「非を認めること(だけ)要求される」
というのが、(かつて)多くの日本人が受けてきた教育だと考えており、これが「非の指摘」=「反対された」という現象を生み出しているような気もする。
「非を指摘される」 => 「非を認めること(だけ)要求されていると感じる」 => 「反対されたと感じる」

「謝れば済む教育」を家庭で受けてきたとしても、「謝って済ませるのではなくて、プラス解決策」的な人々との出会いで意識って変わっていくものだし(まぁ仕事やってれば当然のことか)、やがては「頭が痛くなるような非の指摘」も「成功をより確実にする為の建設的意見」と前向きにとらえられるようになるとかならないとか。

※ あと、とるにたらない揚げ足取りは「スルーカ」(いまだと鈍感力?)で。