自責と他責は置換可能というレトリック

「頭のいい人は、難しい概念も簡単に説明できるはずだ」問題
町山氏の『シャイニング』評を思い出した。

『シャイニング』で主人公の妻役を演じたシェリー・デュヴァルは精神的に追い詰められていき、すごいいい演技をしているのだが、それは地じゃないか、という話。
と、いうのも、キューブリック監督は細かい演出がまるでできず、「ダメ出し」しか出来なかった為、シェリー・デュヴァルは「理由も分からないまま」リテイクをさせられたそうな。
それが精神的疲労を招き、あの演技につながったのだとか。
「黙って地面に足指で『の』の字を書いてろ」と演技指導した某監督とはえらい違いだ。

「頭のいい/悪い」自体は包括的な表現であるので微妙だなぁ、とも思うのだが、「言語化能力」というのはそれはそれで独立したものなのかな、とも思う。
ある物事が頭の中でどう配置されているかというと、シーケンシャルな文章や単純な図であったり、三次元、はたまた時間や他の軸を加えたn次元図形だったり、ツリー図だったりネットワーク図だったり、実体化が困難なものであることも多々あるので、それを「平たい表現」に置換するのはそれはそれで評価すべきものだと思う。

で、もって、

たしかに、象牙の塔の中でふんぞり返ってる態度(たとえば「易しい説明をする必要を感じない」)にはなんだ偉そうにとムカつくわけだが、それと頭の良さは関係ないだろうね。

「自分が悪いのか」「相手が悪いのか」というのはなんらかの評価基準・・・世間的業界的常識だったり、法律だったり・・・に照合すれば、「とりあえず○○が悪い」と断定することも可能だが、その網にかからない部分も多々ある。
もし「あらゆる評価基準は無効である」とするならば、修辞的に自責、他責は置換可能なのだと思う。
稀少なものの言い方をすれば、「オレがこんな悪人に育ったのはオレの育った親や環境が悪いのだ」とか。

人間同士のやりとりについては評価基準が定まりきらない部分も多いと思うので、「自分が理解できないのは自分に理解力がないから」「自分が理解できないのは相手の説明が悪いから」ということが同時に成立してしまっているのではないかと思う。

ただ、他責より自責のほうが投資効果が高いとハズ・・・他人を成長させるのではなく自分が成長する・・・ということがなんとなく共通認識であるので、まぁとりあえず自責しておけ、ってことなのかしら。