搾取ねぇ

結局自己責任が一番安上がり

この間の続きっぽいけど色々と思ったこと。
例の書籍は読んでないのですが。

搾取とか貯め込んでいるという言葉にちょっと違和感があるのは、企業が多かれ少なかれ社会に還元しているという現実があるから。
従業員やその家族に企業年金として還元したり、株主に配当として還元したり、はたまた大学の研究事業だったり、植林事業だったり、地元の行事だったり。

ただ、その還元の質を考える必要があるかもしれない。

たとえ企業であっても社会の一員であるわけだから所属組織に対して還元しようとするのは十分に考えられる。
だが、営利団体であるが故に極めて合理的に動くのではないかと思われる。
ある一定以上の消費能力を有する中間層の人々がより豊かになるような社会を理想とし、それを作るべく動いているような気がしてならない。
なるほど確かにそれはある一点を除き、十分に豊かな社会だろう。
○○を通じて社会に還元する?
そもそも○○に接続できない人々がいるのはどうする?

企業の特徴として発生しうる狭視性を考えると、どうにも再分配機能を企業に任せておくのは限界がある。
そりゃ当り前かと。
だからこそ国の出番になってしまうわけか。

おまけ。
なぜ年功序列が優れているのかでも触れたけど、

価値関数の1つ目・・・「参照点依存性」。 人は富の絶対的水準ではなく、参照点からの変化で効用を考える。 3000万が2000万になるのと、500万が700万になるのはどちらが幸せか。 価値関数の2つ目・・・「感応度逓減性」。 利得や損失の値が小さいうちは変化に対して敏感だが、利得や損失の値が大きくなるにつれ、小さな変化に対しては鈍感になる。 150円の飲料と100円の飲料の選択には敏感だが、10000円の商品と10050円の商品の選択には鈍感。


どうやら、貯金10万円の人への報酬10万と、1000万円の人への報酬100万では前者のほうがそこから感じる利得度が高いということらしいのだが。
インドとか中国の人が搾取で笑えるのは多分これなのかな。
まぁ外国人研修生問題とかあるから誰もが笑っているようには思えないけど。